今日まで


富士山の麓の街で・・・

初代 影山利雄

f0175143_22413951.jpg『影山工房』は私の父の代から始まりました。静岡県富士市出身の父(利雄)は太平洋戦争が終わった後シベリヤ抑留から帰還し、以前の会社勤めの生活に見切りをつけて自分の思い通りに出来る仕事として選んだのが織物でした。

恩師であった芹沢銈介氏に相談をし、浜松市で『ざざんざ織・あかね屋』を主宰する平松実氏を紹介していただきました。平松氏の下で二年間仕事を習い、その後昭和28年に母(みや子)と結婚し、富士宮市に仕事場を開いたのが『影山工房』の始まりです。

 当初は木綿の着尺・唐桟(トウザン)を織っていました。織物の産地でもなく問屋との繋がりもない状態でしたが、知人に鎌倉の工芸店を紹介していただき販路が出来ました。この頃織った反物は鎌倉在住の文士や画家などの人達が好んで求めてくれたとの事です。

 昭和30年代に入った頃、取引先から絹織物の紬(つむぎ)の反物を織ることを勧められ、以後『紬』を専門に織るようになりました。その後訪れた紬ブームは私が大学から家に戻った昭和50年代まで続きました。鎌倉だけでなく地元の個人のお客様からの注文も増え始め、当時は両親と三人で毎晩夜なべ仕事をするのが当たり前の日々でした。

影山秀雄

itosomes.jpgしかし世の中の手織物に対する需要はその後大きく変化し、着物や帯を主力としていた我が家の仕事も転機を迎えました。それまで暖めていた『絹以外の素材を使った織物を』という思いを具体化する機会でもありました。この頃、友人に誘われて訪れた染色家の型染めの作品展で見た美しい藍の色との出会いから、藍や顔料で染色した木綿や麻の糸を素材とした布作りを始めたのです。

 当初は糸を染めさせてもらうために車で片道一時間半の道のりを藍染め工房に通いました。それから何年か経ったある日、染物屋を営む母の実家の跡取りの従兄弟が「仕事場を建て替えるのに中の藍甕がいらなくなるから、お前が使うんだったら持っていけ」と言ってくれたのを機会にこの藍甕を備えた染め場を父と二人で建てました。紺屋職人だった祖父や伯父が長年使い込んだ藍甕で自宅で藍染めが出来るようになったのです。

 私どもが現在使用している素材は、絹・木綿・麻・羊毛・カシミヤ・さらには蓮の糸なども用いますが、これらの糸を布にする時にいつも心掛けている事は『素材の質感を最大限に活かす』という事です。光沢のある絹、手触りの優しい木綿、張りのある麻というように繊維の持つ特徴を引き出しながら、いずれの糸もしっかりと打ち込んで織ります。最初は少々硬い布のようでも使い込んだときに必ず素材本来の風合いが現れて来ますから、この状態になったときに糸が気持ちよく布になっていてくれるように、糸の種類・太さ・染色・密度・打ち込みのバランス、そして仕上げに心を配ります。


職人

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影山利雄  1916年1月生まれ
静岡県富士市の農家の次男に生まれる。
横須賀海軍工廠(かいぐんこうしょう)で木工技師として、その後日本橋の商社に勤務。
第二次世界大戦で中国北部に従軍の後シベリアに抑留される。復員後織物の道を選び、昭和28年にみや子と結婚して富士宮市に工房を構える。元々木工の仕事が得意であったため、仕事の道具はほとんど自作する。

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影山みや子  1925年2月生まれ
静岡県富士宮市の紺屋の四女として生まれる
戦時中、女子挺身隊員として神奈川県寒川市の相模海軍工廠に徴用工として従事した以外は実家の長男を助け染物屋の仕事に従事。利雄との結婚を機に織物を始める。
紺屋の娘だけに“湯通し”の伸子張りの速さは80歳を過ぎた今でも三人の中で一番。

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影山秀雄  1956年1月生まれ
影山工房の長男として生まれる
高校進学時コンピュータに憧れて工業高校の電子科に入るが、三年の間に頭より手先の仕事の方が向いている事に気付き家業を継ぐ決心をする。織物の仕事が特別好きだった訳ではなかったが、続けていても飽きないので自分には向いているのだろうと思っている。

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Doticon_wht_Post.png418-0057  静岡県富士宮市 朝日町8-11

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